プノンペンの女はなぜパリにいないのか                                                         

 

 

 

カンボジアの首都・プノンペンは素敵な街だ。まともな奴は、誰一人いないーーその日、僕はプノンペンの有名なゲストハウス・キャピトルのレストランでひとり寂しくコーヒーを飲みながら、そうつぶやいていた。

 本当にステキな街だと思う。僕はここに着くなり、さっそく強盗に襲われかけた。といっても、なにも悪いことをしたのではない。僕は無実だ。僕はただ、友人と中華料理屋に行こうとしていただけである。

 僕らが二人で宿を出ると、すでにプノンペンの壮麗な夕焼けも終わりを告げかけていた。僕らは街の薄暗い一角を通り過ぎようとしていた。すると、一台のトラックがライトを落としたまま、背後からゆっくりと近づいて来ているのに気づいた。

「……」

 連れの旅行者は、無言で僕に目配せした。このまま立ち止まってやり過ごそう。僕も黙って連れにそう合図した。

 すると、いきなりトラックはライトを光らせ、僕らを少し通り過ぎたところで止まった。そのとたん、連れの男はものすごいダッシュでもときた道を走り始めた。僕は何のことかわからずぼんやりしていたが、やっと状況を理解して走って逃げた。背後では、トラックのランプが今も怪しく点滅していた。

「あぶなかったぞ、おい……」 

 連れは、慌てて戻ったホテルのレストランで息を切らせながら、そう言うのだった。なんでも、あのときトラックのドアが開き、男が一人降りてこようとしていたという。なんと、そのとき銃器らしきものが光るのも見えたという。「ほんまかいな……」と僕は言ったのだが、連れは必死で力説するのだった。ま、信じておいてやろう。僕もあのトラックが、僕らとお友達になりたくて近づいてきたのだとは考えていない。

 それにしても、怪しい街だ。僕は98年にもここを訪れているので、そのころよりは安全になっていることはわかるが、今でも街のあちこちに危険がうごめいている。警官の姿はよく見かけるが、奴らはその名も高き「カツアゲ警官」なので、信用してはならない。市民、特に外国人から金をせしめることだけを生きがいとしている連中で、近寄らないに越したことはない。通称"ロシアン・マーケット"という市場に行けば、なぜか「猿の干物」と一緒に大麻も売られていて、旅行者の間では人気の的になっている。"H"というディスコは有名なジャンキーの溜まり場で、薬中とプッシャーしか存在しない場所である。キャピトルのレストランにはいろいろと訳のわかる人、わからない人々が延々と集まってきて、意味不明の渾然一体ワールドを造り上げている。存在しないのがただひとつマトモな人間、というだけの話だ。

 そんなこの街が、大好きだ。

 正体不明で意味不明、大好きだ。

 僕はそんなことを考えながら、キャピトル・レストランのテラス席でひとりコーヒーを飲んでいた。まもなく、夕日が沈もうとしていた。僕のTシャツの袖を、その日最後の太陽が染めかけていた。オレンジ色に変わりつつある世界で、僕はこの街でただ一人まともな人間である孤独をかみしめていた。おお、たった一人のまともな人間。なんという、寂しさだろう。なんという悲しみだろう……。

 そんな哀愁に浸る僕に、絶妙のタイミングで話し掛けてきたのが、そのおばはんだった。このおばはんこそ、この物語のヒロインである。あまりに奇妙な体験をしたので、それを後世の記憶のために書き残しておきたいと思う次第である。

 

 そのおばはんは、日本語で襲撃をかけてきた。日本語がペラペラなのだ。いきなり、 

「日本人?あたし、日本人の友達が欲しいの……

 と言ってきた。僕は思わずこのおばはんに引き込まれてしまい、同じテーブルで一生懸命話を聞くはめになってしまった。

 話してみると、このおばはんは極めて優秀な人材であることが判明した。日本語のみならず英語もペラペラで、本名はサオワニーといい、実はタイ人だ。本当はバンコクのオフィスで働くバリバリのキャリア・ウーマンだが、今はたまたまプノンペン支社に赴いている。彼女の会社はなぜかワールドワイドな会社で、本社はパリにあり、サオワニー自身もここに勤務していたことがある。彼女はかつて日本のJTBで働いていたこともあり、タイではサオワニー、パリではベン、日本ではユミコと呼ばれるという、絵に描いたようなインターナショナルな女性なのだ。"ユミコ"はパリ本社の名刺も見せてくれながら、ペラペラの日本語でそう語るのであった。

 僕は感心して聞いていたが、ふと何気なくこう尋ねたときから、心の中に奇妙な疑念が広がり始めた。こう聞いたのである。

「ところでパリのオフィスはどこにあるんです?」

 別に他意はない。僕は以前パリに行ったことがあり、僕の心の故郷(?)が懐かしくなって尋ねただけだ。

 するとサオワニーは必要以上にどぎまぎし始めて、「ほ、ほら、あの東京タワーに似た塔があるでしょう、あの近くよ」と言い始めた。パリに住みながら、エッフェル塔を知らないらしい。なかなか不思議な人だ。また、ついでに僕は、先ほどサオワニーからいただいた名刺を見返してみた。それは確かにパリで作られたであろう美しい名刺なのだが、奇妙なことに、名前のところには"F.Peter"という別の人間の名が印刷されていて、サオワニーはわざわざその名前を消した上に、自分で"Miss.Saowanee"と書き加えているのだ。

 F.Peter。おまえはいったいなんなんだ。どこへ行ってしまったんだ。それからサオワニー。おまえはいったいなんやねん。

 さらに話を進めていくと、彼女はかつて日本で働きながら、「池袋」という地名を知らないことも判明した。う、あやしい……。

 たいていの人なら、この辺で引いてしまうのだろうが、僕は違った。「ところで明日、一緒にご飯を食べに行かない?」というお誘いに、こう答えてしまったのだ。

「いいですね。ぜひ行きましょう!」

 

 次の日、サオワニーは髪の毛を整え、ピンクのマニキュワをして、必要以上に肌を露出した格好で現れた。僕は初め外に食べに行こうとしていたのだが、急遽方針を変更して、僕の泊まっているキャピトル・ホテルのレストランで食事することにした。ばかなことを言いながらも、僕は極めて緊張していたのだ。このおばはんが何者か、わからない。なにが起こるかわからないのだ。だから、いざというときはいつでも自分の部屋に逃げ込める体制を講じていたのである。

 席に着くなり、サオワニーは、

「ビールはどう?」

と聞いてきた。

 僕はそもそも下戸で、しかもなにしろ今日は目の前に得体の知れないおばはんが控えているので、不安になって「いや、僕はいいですよ」と断ったのだが、

「大丈夫よ。私が払うから」

と強引に、ウェートレスにアンコール・ビアを注文してしまったのだった。

 サオワニーは、よっぽどビールが好きらしい。何度も何度もおかわりして飲み、しかも僕にしつこく勧め、そのうち僕をじっと刺すような目つきで見つめながら、

「どう?眠たくなってきた?部屋に帰りたい?」

 と言い始めた。

 ここで、僕はようやくピンときた。

 睡眠薬強盗だ。

 僕を酒で眠らせ、その間に身ぐるみを剥ごうという算段なのだ。

 実は、こんなこともあろうかと、外部のレストランに行かず、泊まっているゲストハウスでの食事にしたのだ。訳のわからないレストランに行くと、いつビールの中に睡眠薬を盛られるかわからない。なにしろ、ここはプノンペンなのだ。その点、キャピトルなら勝手を知っているので、まだ逃げやすい。だいたい、僕はアンコール・ビアが運ばれてくるとき、そしてそれが開けられるとき、異状はないか、あらかじめ開けられた形跡はないか、ビンの口になぜか不気味な白い粉がついていないか、注意していたのである。

 だが、そのような怪しい兆候はなかった。僕も今のところ、正常だ(ほんまかいな)。ここで僕はすばやくバッグからカメラを取り出し、反撃にでた。

「ねえ、写真とらせてくれない?」

 するとサオワニーは、笑いながらも驚くほど露骨に嫌がり、必死で顔を隠そうとするのだが、僕は容赦せず、フラッシュ一発、とってやった。

 一発、そしてまた一発。

 安宿のレストランが、まるで雷光に洗われたように輝き、閃光の中に浮かび上がった。

 テーブルの上で、貧しい食事をしていたバックパッカーたちさえも。

 みんなが、不思議そうな顔で僕らを見ていた。

 

 おかしいことに、おばはんはこれ以降すっかりおとなしくなってしまった。寂しい限りだ。また、僕がフリーライターだということを告げると、おばはんは急にそわそわして、

「ねえ、あなた英語で書くのかしら」

と聞いてきた。読者の多い英語で自分のことを書かれたら営業的にたまらんという思いがあったのだろう。僕は、

「心配しなさんな。僕の文章は英語に訳されて、世界中で読まれているよ」

 と答えておいたが……。

 

 しかし、おばはんは僕の用心深さ、すかさず写真をとって証拠にしようとする動作の機微さ(?)にすっかり感心してしまったらしい。彼女の話は、このあたりから僕に対する賞賛の色を帯び始めた。

「ねえ、私のビジネス・パートナーにならない?」と言うのだ。いったい、どんなビジネスをさせるつもりなんだ。なかなか人を見る目がある、と言えよう。

 また、おばはんは自分の 身の上話を延々とし始めた。

「私、いろんなことをやったわ。でも、絶対にやらなかったことがあるわ」

「なんです?」

「殺人とドラッグ売りよ」

 睡眠薬強盗はその中に入らないんですね、という失礼な疑問は、当然のごとく自分の中に飲み込んだ。

「ねえ、私の伝記を書いてくれない?きつと面白いものになるわ。私の人生は、奇妙な人生だった。他の人のものとは、全然ちがうのよ……

 

 だが、感動的なこともあった。当然のごとく僕が払うものと思っていた夕食代は、ぜんぶおばはんが払ってくれたのだ。なかなかいい人じゃないの。読者の皆さん、よかったら今度、紹介しますよ。

 そして、そのうち酒の席も佳境に入りかけてきた。だが、それにもかかわらず、僕はむずむずしながら、帰りたそうなそぶりを見せていた。あんまり長居すると、どんなことが起こるかわからなかったからである。

 すると、そんな僕の姿を見ていたおばはんは、こう言った。

「帰っていいよ」

 僕は立ち上がった。ゆっくりと椅子をテーブルの奥に押しこみながら、こう言った。

「さようなら。またね!」

 おばはんは、ちょっと虚を突かれたような顔をした。だが、すぐに微笑を取りもどし、ピンクのマニキュアで彩られた指をゆっくりと振りはじめた。

 僕はそのピンクが空中に弧を描くのを見ながら、おばはんに背をむけた。そしてもういちどふりかえり、手を振った。

 おばはんは今も微笑んでいた。

「旅のあやまち」というわりには、あまりに美しすぎる出来事じゃないの。

 僕は無傷で戻ってきたんだし。

 ごめんね、おばはん。

 今度はもっと無防備で、だまされてあげるからね。

 

      *            *             *

 

 さて、これには後日談がある。僕は日本に帰ってきたあと、サオワニーが残した名刺をもとに、「彼女の」パリ本社にE-Mailを送っ

た。「ミス・サオワニーとコンタクトを取りたいのですが……」返事はこうだった。「彼女はいまバンコク支社にいます」

 だが、僕はバンコク支社の所在地を知らないし、また、バンコクまで連絡を取る気もなかった。そこにどんな"サオワニー"が働いているかは知れたもんじゃなかったし、そしてその女性は、プノンペンで微笑んでいたあのおばはんとは似ても似つかない人物である可能性が大であったからだ。

 人生は、悲しいね。

 いや、悲しいからこそ、人生なのだろうか。

 そして、その悲しみを癒してくれるのが、ただ旅なのだろうか。

 僕はそんなことを考えながら、パリから送られてきたそっけないE-Mailを眺めていたのだった。