コートク的生活       過去の作品


★ 歯医者の検診を受けるサダム・フセイン 12/15




「はいサダムちゃんアーンして。あらあ、いっぱい虫歯が出来たね〜」
歯医者の検診を受けるサダム・フセイン。

ではなくて、これは、サダム・フセインとされる人物がイラクで捕われ、本当にサダム本人か、米軍が必死で検査している写真である。

とはいっても、ちょっと見た限りでは、ひげもじゃの男が歯医者の検診を受けているところとしか思えない。
きっと、逃亡中に虫歯も増えたのだろう。

それにしても、やはり米軍は用意周到で、親切だ。
大量破壊兵器は見つからなくても、虫歯くらいは見つかるにちがいない。


(写真 2003年 ロイター/Handout)



 ★「スターバックスのミイラ」 12/10

スターバックスに置いてある食べ物って、どうしてあんなに不味そうなんだろう。

ほとんど、五千年前のピラミッドから発見されたような、干からびてパサパサになったパン類が、堂々と売られているのだ。
見るからにまずそうで、顔色も悪い。

おそらく、保存上・衛生上の問題から、ベタベタしたウエットな生クリーム類は置けないのだろう。
それにしても、ピラミッドのミイラみたいな食い物を置かなくてもいいじゃないか。

さらに驚くべきことは、そのミイラを堂々と買ってきて、嬉しそうに食べている人々がいることだ。
五千年前の食べ物を食べて、大丈夫なんだろうか。

(前のMemorizeはつながりにくかったみたいなので、今回からスタイルを変えます)



マイケル・ジャクソン逮捕 (11/21)




マイケル・ジャクソンが逮捕された。
……と、まったく興味のない僕も書いているが、僕は前から、マイケルのことを「歩く人種差別」と呼んでいる。
マイケルが活躍すればするほど、「黒人は醜く、白人は美しい」という観念が世界に流布されるので、ユニセフ大使のような人なのである。
これからもがんばって、踊りながら差別をひろめていって欲しいものだ。
逮捕なんかにくじけるな。


しかし、上の写真、僕がこのところ最も感動した写真のひとつだ。
ピューリッツァー賞ものだろう。
もしくは、マイケルと「逮捕」という概念を組み合わせた、ほとんどシュールレアリズムのデペイズマンのような芸術作品だ。
何度見ても、新鮮な戦慄を感じる。



大阪家族殺傷事件の少女 (11/17)




まったくの偶然から、あの少女のサイトを見つけた。
例の、大阪の家族殺傷事件に関わった少女が作ったサイトである。
といっても、当のサイトは事件とともに削除され、何者かがコピーしてサーバーにアップしていたものが残っていただけなのだが。
そして、僕の予感は的中していた。

この少女は、きわめて豊かな才能の持ち主なのである。
特に、この子の言語感覚、詩的才能は本物だと思う。
それは、報道の中から漏れ聞こえる、少女の書いた言葉の断片から、十分予想できたのだが。


たとえば、7月12日の日記……
 
 夕暮れの空の色が青紫で、不安です。

また、7月25日……

 魔女の宅急便鑑賞中。
 外ではやばいくらい嘘臭い鳴き声で、猫が啼いてます。

これらは異様に感覚が鋭く、独創的な表現なのである。
そもそも、僕は夕暮れの色を「青紫」と描写した作品を、見たことがない。

色彩とは、常に個人的で主観的なものだ。
絶対的な色彩というものは、この世に存在しない。
たとえば、虹を日本人は「七色」と表現するが、アラブ人は五色と表現する。またある民族は九色と認識する。
信号の「渡れ」の色。あれを「青」とみなす人もいるし、「緑」だと主張する人もいる。

つまり、この世に「絶対的な色彩」というのはなく、色というのは、表現する人の主観によって全然ちがってくるのだ。
で、さきほどの少女の、「夕暮れの空の色が青紫」という表現。
もしこの子のそばに誰か他の人がいたとして(殺害した少年?)、少女と同じ夕焼けを見たとしたら、どうだろう。
同じように「夕暮れが青紫」と考えただろうか。

おそらくちがうだろう。
たぶん彼(彼女)は、
「わあ、真っ赤な夕焼けがきれいだなあ……」
くらいにしか思わなかったにちがいない。
それが日本語の普通の感性であり、ボキャブラリーだからだ。

「青紫の夕暮れ」というのは、あえて言えば、世界でただ一人、この少女にしか見えなかったのである。
なんという孤独な感受性。
しかし彼女はその一瞬の情感を、孤独の中に見事にひとつの言葉に定着させたのだ。

彼女のサイトは、このような徹底的に孤独で切ない表現に満ちあふれている。
彼女はまだ15歳で、その作品も決して多いものではない。
発表されているのは、彼女の顔写真、プロファイル、詩、そしてリストカットして流血した写真群。
だが、その数少ない作品から見えてくるのは、「残念ながら」この少女の才能の本物さ、確かさである。
正直、この子がこれから、どんな人生を歩んでいくのか分らないが、ここに異様で鋭い感受性があったことを、忘れるわけにはいかない。


と、いろいろ書いてきたが、僕は正直言って、こんな屈折したヒネた女は大嫌いである。
女性はやはり、単純でノーマルなほうがいい。
最後に思わず本音も書いておく。



『カイジ』について 2 (11/6)

福本伸行の『カイジ』をさらに読み進める。

回を追うにつれ話が無茶苦茶になってきて、「鉄の処女」のような拷問具をつけて、カイジの「鼓膜」を賭け、負けたら鼓膜を貫通するとか、一億円を賭けて負けたら指四本切断だとか、どんどんスプラッター映画のようになってくる。血もそうとう飛び散る。
後半は、高層ビルの中で真夜中にギャンブルをするという設定なので、絵のトーンも終始暗く、まるでSMクラブの拷問室で読書しているような気分になってきた。実際に拷問の小道具も、いろいろ出てくるのだ。
主人公カイジは、貧しく持たざる若者という設定なので、数千万や一億も賭けるには、まさに自分の命や体を張るしかないのだが、残酷趣味が別にない僕には、ちょっと辛いものがあった。



『カイジ』について (11/5)

何を思ってか、いきなり福本伸行の漫画『カイジ』を10冊まとめて買ってきて、一気に読む。
これは、とんでもない作品である。
漫画を読んでこれほど衝撃を受けたのは、青木雄二の『ナニワ金融道』を読んで以来だ。

要するにギャンブル漫画なのだが、よくある麻雀漫画やパチンコ劇画ではなく、ギャンブルを通して、人間の希望、絶望、喜び、世界の創生、破壊、苦悩、政府の誕生から革命、暴動まで、ありとあらゆるものが執拗に、象徴化されて描かれているのだ。
ほとんど、ドストエフスキーの悲劇を思わせる物々しさである。

おそらく、作者の福本氏はドストエフスキーを読んでいたと思う。
ドスちゃん(?)自身がギャンブル狂で、すってんてんにならければ物を書けなかったのはよく知られている。実際、『賭博者』という、ギャンブラーの心理を克明に描いた小説も残している。
また、前出の故青木雄二氏も、『ナニワ金融道』は『罪と罰』の影響を受けている、と再三主張していたので、この三人はどこか似ているのだ。
『カイジ』については、全巻読み込んでから、機会があればまた書こう。