コートク的生活       過去の作品
2003/10/26(日) 20:08:00
「アクセス数が急増」

このところ、僕のホームページのアクセス数が急増している。
いつもの10倍以上。何が起こったんだろう。
どこかで紹介されているのだろうか。
好意的な紹介ならいいが……。

初めて来られた方は、こんなにアカデミックで素敵なサイトがこの世にあったのかと、感動されたと思う。
これからも、ご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
それと、よかったら掲示板にも何か一言、書いていってくださいませ。



2003/10/16(木) 22:03:00
「昔ながらの喫茶店」

昔ながらの喫茶店って、けっこうあるものだ。
今日、街を歩いていて、改めて気付いた。

「パリジャン」
「枯葉」
「セシボン」
など、古色蒼然たる名前の「純喫茶」が、今も街のところどころに見うけられる。
コーヒーを淹れているのは、髭のマスター。
店内に薄くかかるクラシック音楽。
もうもうと立ち込める紫煙。
無駄なおしゃべり。嬌声。散乱する漫画本……。

僕はもう何年も、この手の店に行ったことがない。
僕はもともと閉所恐怖症で、家の中では原稿が書けないから、必ずノートパソコンを持って外に出かけるのだが、それでも僕が利用するのは、スターバックスやドトールなど、新手のセルフサービスの喫茶店である。

それは、この「セシボン」やら「パリジャン」には、残念ながら禁煙席すらないからだ。
僕は煙草の煙が嫌いだから、隣でプカプカ吸われて大人しく物が書けるわけがない。
必然的に全面禁煙のスターバックスなどのセルフサービスの店になるのである。
安いばかりが理由ではない。

今、東京の都心では、昔ながらのいわゆる「純喫茶」はどんどん姿を消している。
それは地価が高すぎて、一杯400円のコーヒーで1時間もねばられたらやっていけないからだとも言われているが、それだけが理由ではないだろう。

答えは、煙草の煙の中にくゆられている。



2003/10/14(火) 16:59:00
「なんてことはない懐かしい写真」

今日、池袋の東武デパートに行ってきた。
すると、1950年、60年代の日本を写した写真展をやっていた。

それは、なんてことはない写真だった。
メンコに興じる子供たち。木炭バス。妙にカクカクした文字の多い看板。おかっぱの女の子を連れて歩く着物姿の女性。まだ高層ビルもなく、のっぺりとした新宿界隈。まばらな人並みの中を走るトロリーバス……。

それは構図とか、なにか狙った効果とか、なにかを訴えたくて写した感動の一枚、といったものではなかった。
ただの素人が、適当にカメラを構えて撮ったとしか思えない写真だったのだ。
しかし、それが圧倒的に美しく、懐かしかったのはなぜだろう。

思えば、「記録」とは、すべて意味がないものである。
たとえば、メソポタミア文明の遺跡から発掘される、楔形文字の粘土板。
あれには、偉大な文学とか、叙情的な詩とか、感動的な人生の教訓などは、決して書かれていない。

あれは、ほとんどが役所の文書なのだ。
要するに、「誰の家に妻がいて、子供が何人いて、牛が一頭、豚が八頭……」などといった無味乾燥なことしか書かれていないのだ。
そう、圧倒的に無味乾燥な記録群。
しかし、だからこそ資料的価値があり、学者たちは狂ったようにそれを追い求めるのである。

この昔の日本を写した写真家たちも、決して後世になにかを残そうとか、記録にとどめておこうとかは考えなかったに違いない。
ただ、たまたま手元にカメラがあったから、友達や妻に撮ってくれと言われたから、なんとなく寂しかったから……思わずパシャリと撮ったに違いないのだ。
彼らは、ただ自分の瞬間に忠実に生きていた。
だが、その瞬間が永遠になったのである。
あの写真は、下手だからこそ永遠なのだ。
もしこの写真が一流の写真家が撮っていたものだったら……
ピントも合っていたら……
構図も考えられ、なにを訴えたいか明晰になっていたら……
僕をこれほど感動させることは、きっとなかったにちがいない。

こういう作品を見ると、ありとあらゆる「技巧」というものが、いかがわしく思えてしまう。
一流の写真家が必死のテクニックで撮った写真が、素人が適当に写した写真の感動に負けるとは、いったいどういうことだろう。
そこには、どんな奇妙な秘密が隠されているのだろう。


2003/10/06(月) 18:59:00
「携帯電話を投げ捨てて」

昨日あたりから、携帯電話を捨てて、街に出ることにした。
結果として、気分は爽快である。

結局、「緊急の用事」なんて、めったにないことが分ったからだ。
あるのは、相手が「緊急だと思っている」用事にすぎない。

恋人でもいれば別だろうが、今の僕にはそんな気のきいた存在はないので、関係ないのである。

携帯電話を捨てて、僕はすっかり自由になった気分になった。
もうあの煩わしい着信音も、せっぱ詰まった調子で話しかけてくる声も、いなくなったからだ。

しかし、それはなんて悲しい、ちっぽけな自由だろう。

一人の奴隷が、右足の足枷がなくなったからと言って喜んでいるようなものだ。
実は、左足にもしっかりと足枷は嵌っているのだが……。


2003/10/05(日) 22:32:00
No.64 アメリカとウィルス

先日、「ウィンドウズはウィルスである」という説を紹介したが、もしそうだとしたら、そのウィンドウズを壊しにやって来るウィルスとは、いったい何者だろうか。
実は、ウィルスこそ、悪辣なウィンドウズを破壊する正義の使者であり、本来のOSなのではないだろうか。

この状況は、現在のイラクの情勢に似ていると思う。
暴力によってイラクを侵攻し、支配し続けるアメリカ。
それを迎え撃つ、アメリカ側が「テロリスト」と呼ぶ人たち。

しかし実は彼らは「テロリスト」などではなく、あれこそイラクの正規軍だという人がいる。
つまり、今アメリカは、イラクという国家と全面戦争状態にあるわけだ。
フセイン政権は消滅していない。
それはアメリカが勝手に言っているだけであって、現にフセインはいまだに見つかっておらず、軍隊の抵抗も延々と続いているのである。

アメリカとイラクの「ゲリラ」との戦争。
ウィンドウズとウィルスとの戦い。
どちらが勝つかは分らない。
ただ、どちらも胡散臭い連中であることは間違いない。


2003/10/03(金) 06:37:00
No.63 コンピューターウィルスの攻勢

このところ、すさまじい勢いでコンピューターウィルスが届く。
下手したら、一日に10通も。そんなに愛されているんだろうか。

あまりにひどいので、ホームページに公開していた今までのフリーメアドをやめて、ホットメールにする(来るのは、HPで公開しているアドレスあてだ)。
これなら、いちおうウィルスチェックサービスがある……らしいので、気休めながらも少し安心である。
とりあえず、マイクロソフトからのメールを偽装してやってくるウィンドウズのパッチと、Undelivered Mailを偽装してくる添付ファイルは要注意だ。
僕は「たまたま」事前に話を聞いていたので知っていたが、知らなかったら簡単に引っ掛かっていただろう。
みなさんもご注意を。

ところで、ウィルスといえば、ウィンドウズ自体が巨大なウィルスだ、という説もある。
だからこそ、あのOSはあんなに不安定なのである。
自称「マイクロソフト社」からコンピューターウィルスがやってくるのは、極めて自然なことなのかもしれない。



2003/09/11(木) 18:15:00
No.62 エリントンとコルトレーンが……


 
 
デューク・エリントンとジョン・コルトレーン。
 この二人のジャズの巨頭には、ただ一枚だけ、共同で録音したアルバムがある。
 そしてそのレコーディングの時、次のようなことがあったという。
 
 コルトレーンは完璧主義者である。
 彼は何度も録音しなおし、自分の気がすむまで徹底的にやりなおそうとする。
 その様子をじっと見ていた、数十年先輩のエリントンは、ただ一言、こう言ったという。
「きみ、本当にspontaneousな音楽は、一度しかできないんだよ」
 
 spontaneousな音楽……
 それは、自発的な、内面から湧き起こってくるような、自由で、闊達な音楽。
 それはただ一度しか演奏できず、決して録音しなおすことはできないと、エリントンは言ったのだ。
 
 これが、ジャズのimprovisation(即興)の精神である。
 そして、今のいわゆる「クラシック音楽」の世界と、決定的にちがうところだ。
 
 クラシック音楽は、楽譜の世界である。
 あらかじめ音楽に楽譜や決まりごとがあって、それに則って無難に演奏をこなすことがよしとされる。
 
 しかし、ジャズでは、楽譜は大した意味はもたない。
 それは、即興の世界である。
 楽譜通りに演奏するのは、愚か者なのだ。そんなことは誰でもできるのであって、その場その場の気分・雰囲気で勝手にメロディを創り出し、リズムを叩く……その時初めて音楽は"jazz"となり、そうでなければ、ただの三流のクラシック音楽に過ぎない。
 
 もちろん、即興演奏中に、とんでもないメロディを吹いてしまうこともあるだろう。リズムが狂うこともあるだろう。訳の分からない失敗を犯すこともあるかも知れない。
 しかしジャズとは、失敗も作品として認めてしまうという、鷹揚で恐るべき音楽なのだ。
 
 ジャズメンは知っているのだ。
 失敗だけが信頼に値すると。
 人が「失敗」とみなすものは、決して真の意味での失敗ではなく、それは人間の本当の感情や喜びや悲しみに満ちた豊穣な海であり、そこだけが偉大な作品の源泉なのである。
 
 逆に言えば、人は失敗を犯さなければ、決して真実に到達できない。
 人が「傑作」と呼ぶ作品は、すべて大失敗した作品なのである。
 駄作とは、意図通りに、完璧に成功した作品のことを言うにすぎない。
 
 いや、そこまで深く考えていないのかもしれないが、僕はこのジャズのいいかげんで鷹揚な精神に、何度救われたか分らない。
 僕は往々にして完璧主義すぎるところがあるから、なおさらだ。
 
 
さて、唐突にこのような話を持ち出してきたのは、別に深い必然性や意味があってのことではない。
 これもジャズの大いなる「即興性」や思いつき精神の発露であって、そこのところ、切にご容赦願いたいものである。




2003/08/29(金) 03:39:00
No.61 「老年の悲しみは、若すぎるということだ」

「老年の悲しみは、若すぎるということだ。私はときおり自分の純粋さに驚くことがある。」

オスカー・ワイルドの言葉である。
年をとり、それだけ経験を重ね、成熟し、ずる賢く卑劣に生きていけるのならまだいい。
思わぬところで単純で純粋なところがあったりするから、そこに悲劇が生じるのだ。

僕はまだ「老年」だとは思っていないが、自分の単純さ、愚かさに驚くことがある。
そしてせめて年相応に卑劣に、狡猾に、陰湿に生きていきたいと、切に願っているのだ。

だがその時は、僕の中にあるかもしれない輝きや芳香は、失われているだろう。
人間的な苦しみからは解放されているだろう。しかしその時僕は、徹底的に退屈で凡庸な人間になり、僕の作品や人間性からは、きらめきや光輝などといった気恥ずかしいものが、いっさい消失しているだろう。

そしてその時、気付くかもしれない。

自分の中で信じることができるのは、ただ自分の愚かさだけだったと。
僕らはただ、自分の愚かさの中だけで輝き、生きることができるのだと。


2003/08/25(月) 06:21:00
No.60 「雑誌のイメージとちがいますね……」

この間、ある飲み会に参加していた時のこと。
ある女性から、
「雑誌のイメージとちがいますね……」
と言われた。

ちょうど、ある雑誌で掲載されていた、僕の書いた「日本のエロ祭り」という記事を見せていた時のことだ。

「イメージとちがう、ということは、僕はどういう人間に見えるの?」
と聞いてみた。
彼女はいろいろな話をしてくれたが、後になって僕はふと気付いた。
けっきょく彼女は、僕が「どういうイメージに見えるか」については教えてくれなかったのだ。
はぐらかされたのだ。

「雑誌のイメージとちがいますね……」
この美しい言葉はエーテルのように、答えを待たないまま、酒場の空気の中に静かに漂っていた。

2003/08/16(土) 10:04:00
No.59 「奇祭評論家」とは何者か

僕は最近、「奇祭評論家」を名乗っている。
これはもちろん、半分本気で、半分冗談だ。
奇祭が好きなのには間違いないが、要するに、世界中どこにもない肩書きを勝手に創ろうと思ったまでだ。
自分で肩書きを創ると、その分野ではまがうことない世界一になれるのだから。
そしてこのような肩書きを勝手に創るときにも、その人のセンスが問われるのである。
さらに、「奇祭」という重々しく厳粛な響きと、「評論家」という軽薄で無責任な響きのベスト・マッチが、またたまらない。
通好みの名前なのだ。

ところが最近、驚くべきことがあった。
たまたま、マイクロソフトの「MSNサーチ」で調べものをしていたときのことだ。
なんと、「評論家」というカテゴリーに、僕の名前がしっかりと出ているのだ。
http://search.msn.co.jp/results.aspx?q=%E8%A9%95%E8%AB%96%E5%AE%B6&FORM=SMCRT

しかもほとんどトップクラスの順位で出ていて、これによると、僕は立花隆や水野晴朗や加藤周一より上なのである。

さすがはビル・ゲイツ。本物を見る目がある。
マイクロソフトの華麗なる大躍進も、ビル・ゲイツのこのような確かな選択眼に支えられていたのである。
ビル・ゲイツ帝国の絶大な支配力は、ここ数十年は安泰であろう。


2003/08/13(水) 03:38:00
No.58 ビデオ・チャットしたい

先日、インターネット・テレビ局を開設したいよしを書いたが、よく考えると、僕はウェブ・カメラすら持っていないのに気がついた。
さらには、ビデオ・チャットもやったことがない。
昔のSFの登場人物は、かならずテレビ電話で華麗に話をしていたものだ。
21世紀に置いて行かれてはいけないので、さっそく感動的にウェブ・カメラを買いに行く。

パソコンに設置し、その画質の荒っぽさに驚いたり、画角調節に苦心したりしていたのだが、そのうち、さらなる重要なことに気がついた。
単純なことだが、ビデオ・チャットをやるには相手がいるのだ。

僕の周囲で、ウェブ・カメラを持ってビデオ・チャットをやっているという人は聞いたことがない(いるんだろうか?)。
さらに、これは自分の映像をさらすことになるので、文字チャットと同等に考えることはできない。

かつて筒井康隆は、
「電話を最初に導入した奴ほど馬鹿な奴はいない。誰にもかけられないし、かかってこないじゃないか」
と言っていたが(ちなみに、日本で最初に電話を導入したのは宮内庁である)、それと同じ状態なのだ。

というわけで、ウェブ・カメラを持っていて、ビデオ・チャットをしてもかまわないという優しい方、ぜひメールをください。
このままでは、日本で最初に電話を導入した、みじめな奴になってしまいますので。
先駆者はいつも孤独なものです。


2003/08/11(月) 19:10:00
No.57  インターネット・テレビ局

突然だが、インターネット・テレビ局を開こうと思い始めた。
何の前触れもなく。
今日は暑かったのだ。

要するに、毎回「コートク的生活」を書くのが面倒くさい、というのがあるのだ。
それならカメラに向かって喋ってしまったほうが早いんじゃないか、とも思う。

カメラに向かって一人つぶやくという孤独な作業に耐えられるか(アシスタントがいれば手伝ってもらえばいいんだが)など、いろいろな問題はあるが、最大の難関はこれだ。
部屋の掃除をしなくちゃな……。



2003/07/23(水) 05:55:00
No.56 サイトがヤフーに登録される

僕のサイトが、ヤフーに登録されることになった。
ある日突然。
ありがたいことである。

しかし、奇妙なことに、僕は一度もヤフーに、
「私のサイトを登録しておくれ」
と申請した憶えはないのである。

いきなり、ヤフーからメールが来て、
「あんたはんのサイトをヤフーに勝手に登録させてもらいましたで」
と。

ヤフーのサイト登録とは、自分で、
「私のサイトは素晴らしいですよ」
と勝手に推薦して、そして10人のうち9人は落とされるものだと思っていたが、こんなこともあるのである。

ひょっとしたら、誰か心優しい方が、僕のサイトをひそかに推薦してくれたのかも知れないとも思う。ありがとうございます。

そして、今まで僕のサイトを根気よく訪れてくださった、みなさまのおかげとも思っています。
今後ともたゆまず更新していきますので、どうかよろしくお願いいたします。



2003/05/18(日) 22:07:00
No.55 僕のテレビ出演について

 5月10日に東京ケーブルネットワークテレビの取材で神田祭に行き、テレビにも出演してきました。
 最初は写真を撮ってウェブに載せるだけかと思っていたのですが、テレビ自体にも出演することになったのです。 
 30分ほど神田祭について熱く語るということで、本当に俺にそんなに長く話せるんかいな……と不安に思っていたのですが、これが自分でも驚くほどペラペラと流暢に喋れたので、我ながら感心しました。
 司会者の人も、
「関西の人は突っ込みやすいですね〜」
と感動していたくらいです(笑)。

僕が思うに、テレビのスタジオには、どうしても「話さざるをえない」という奇妙なエーテルが流れている。
 そこで僕に別の人格が乗り移り、支配し、突き動かし、ぺらぺらと色んなことをしゃべらせる。
 今までよくテレビで、コメンテーターと称する人々がぺらぺらと勝手なことを喋っているのを聞いて、
「よくこんな好き勝手なこと言えるな……」
と感心していたのですが、今ではその気持ちがなんとなく分る。
 司会者の誘導がうまいせいもありますが、スタジオを支配するのは「言葉」であり、言葉を満たさない限り世界は始まらない、という感じです。
(といっても、テレビカメラの前で固まっている一般市民もよくいるので、この理論は絶対的ではないでしょう)

 神田祭について、江戸っ子の生き様について、祭り全般について、ひいては祭りと社会と日本の未来について、我ながら、
「よくこんなもっともらしいこと言えるな……」
と感心するほど喋りましたので、僕は書くよりむしろ語るほうが向いているのではないか、と思えてきました。

 というわけで、これを見ていらっしゃる方、何かしゃべる仕事がありましたら、よろしくお願いします(笑)。
 何でも語ります。


2003/05/05(月) 19:44:00
No.54 本屋でヌード写真を見る

 この間、本屋でヌード写真を見ていた。
 といっても、変なことを想像しないでほしい。
 新しいデジカメを買おうと思って、カメラ雑誌でそれぞれの機種の画質を真剣にチェックしていただけである。
 そのテスト画像が、たまたま「ヌード写真」だったということだ。

 カメラの画質チェックには、真剣な考察を要する。
 僕もその日ヌード写真を見ながら、おっぱいの張り具合がいかに描写されているか、肌の色つや、何かはみ出ていないか、なぜか「毛」などがのぞいていないか、さらにもっとすごいものが露出したりしてないか……などと、目を皿のようにしながら、真剣なカメラマン的考察をヌード写真の上に加えていたのである。

 すると、背後で妙な視線を感じた。
 見ると、一人のおばはんが僕に冷たい視線を送っているのだ。

「まあ、いやらしい。あの男、あんなに真剣にヌード写真を見ているわ。ほんとに男ってやあねえ!うちのタカシに近寄らせないようにしないと……」
などといった視線である。

 しかし、生憎だがおばはん、君と僕とでは生きている世界が違うのだよ。
 君はヌード写真というと
「オヤジが目を血走らせて見るイヤラシイもの」
としか考えられないだろうが、僕のような華麗なアーティストにとってヌードとは、
「芸術家が自己を実現する一手段」
に過ぎないのだよ。
 女体の神秘なのだ。芸術なのだ。
 決して、君のようにいやらしい思いで見ているのではないのだよ。
 日頃から女性週刊誌的な下卑た世界に生きている君には、とうてい理解できないだろうが。
 
 などといっても、このおばはんに分るわけがない。芸術家はとことん孤独である。
 おばはんは立ち去った。僕がその後もしかたなく、何かはみだしてないか、お毛々は大丈夫か、不穏なものはのぞいていないか……などという真剣な芸術的考察を、写真の上に下していたのである。

 

2003/05/02(金) 11:45:00
No.53 白装束集団とサラリーマン

 謎の白装束集団が岐阜県の林道を占拠し、「色が白い」という理由で嫌われているようだが、僕にはそれよりも、夏なのにドブネズミ色のスーツでいっせいに出勤するサラリーマン集団のほうが奇怪である。

「人間はドブネズミ色でなければならない」
とどこかで決まっているのだろうか。
 一種の宗教なのだろうか。
 それで、「サービス残業」という名のお布施をしているのだろうか。

 林道占拠を批判する人は、今まで自分は一度も駐車違反をしたことがないのかどうか、自問してほしい。
 僕の家の近くでも、明らかに道路を日常的に「車庫使用」している人がいっぱいいるのだが。




2003/04/30(水) 22:53:00
No.52 アクセス集計

僕のホームページはアクセス集計ができるのだが、ここ数日、通常の数倍のアクセスが殺到していることが分った。

みなさん、ゴールデンウィーク中に孤独なんですね、たぶん。

しかし、孤独なのはいいことだ。
これから、二人になれるということだから。

とかなんとか、たまには日記らしいことも書いてみたい私です。


人生の悲しみに乾杯!

2003/04/25(金) 18:08:00
No.51 世田谷の女性殺人未遂事件

 世田谷で女性への殺人未遂事件が起こったが、犯人の似顔絵が警視庁により公開された。これが恐るべき絵なので、ぜひご覧いただきたい。これである。



 
 
 題して、「逃げる男」という。
 
 ところどころ、ピカソやミケランジェロの影響がうかがわれる。背後の青い荒々しいタッチは、ゴッホの後期の作品の足跡にちがいない。明らかにデッサンが歪んでいるところがあるが、それはもちろん意図的であって、体のフォルムをわざと狂わせて描き、観るものを非現実の世界にいざなう、ダリのシュールレアリズムの手法に通ずるものがある。全体として、男の孤独、悲しみ、犯罪者としての自暴自棄さまでを見事に抽出し、キャンバスの中に荒々しく封じ込めた、ラファエル派後期の傑作と言えよう。

 つーか、これはいったいなんやねん、この下手な絵は。
「犯人の似顔絵」と言いながら、これじゃなんの参考にもならんじゃないか。ただの「男の後姿」じゃないか。
 これで、「うーん、あの男か。まちがいない。おまわりさん私知ってますよ知ってますよこの男!」などという人がいたら、きっとその人は超能力者に違いない。

 残念ながらこの絵では絶対に犯人は捕まらないだろうが、それでもかまわない。警視庁配属の「芸術家」「絵描き」の方は落胆しないでいただきたい。
 芸術的な価値は、しばしば現実的な価値に反する。犯人が捕まらず、実際のモデルと全然似ていないことこそ、実はこの絵が名作であることを証明しているのである。

2003/04/25(金) 11:55:00
No.50 あのころに戻りたい。

 僕が借りているこのスペース”Memorize”だが、これがなかなか面白い。
 いや、実はぜんぜん面白くないのだけど、時々とんでもなく変な日記に出会うので、素晴らしい。

 今日、たまたま読んでいた日記はこうだった。
 まず、その人がトイレに入る。すると、目の前の壁に「右を見ろ」と書いてある。
 右を見ると、そこにも「右を見ろ」と書いてあって、さらに右を見ると、そこには
「キョロキョロするな!」
と書いてあったという。
 
ほとんど平安時代かメソポタミア文明の時代からありそうな古ぼけた「ギャグ」だが、その日記の作者は本気で感心しているのだ。
「くそー、やられた。しかし、これを書いた人は、相当な切れ者だなあ……」
なんて。
 
 よく考えれば、僕も小学生のころは、
「空海、食うかい?」
「布団がふっとんだー」
「ラクダに乗って楽だ楽だ」
などという「ギャグ」で真剣に笑っていたものである。
 
 あのころに戻りたい。
 純粋な心を、もう一度取り戻したい。

2003/04/23(水) 10:04:00
No.49 「ダイズ」を振りだせ

 今日から、このエッセイフォームを使うことにした。
使いにくければすぐやめますので、ご協力のほどを。

 さてこのエッセイフォームは"memorize"
http://www.memorize.ne.jp/
というところで借りているのだが、このサイトで面白い日記を見つけた。
「ダイズを振りだせ」
というタイトルだった。

 人生は賭けの連続であり、いつか勝負に出なければならない、という素晴らしい内容だったが、あくまで「ダイス(dice)」ではない。
「ダイズ」
である。

 「ダイス=さいころ」の書き間違いとも受け止められるが、ひょっとしたら、日本のどこかで、なぜか人生の危機には「大豆」を振るという変な習慣が残っているのではないか。
 別にそんなものは知りたいとも思わないが、人生の勝負でわざわざ「大豆」を振りだす人間とは、いったいどういう人なのだろうか。