コートク的生活 

過去のエッセイ

No.40 独裁政権とは国民が賢明であることの証明 である (4/1)

 
独裁政治が行われているのは、実は国民が賢明であることの証明である。
 
 なぜなら、国民が賢明であるからこそ、政府は暴力を使ってまで従わせる必要があるからだ。
  
 アメリカが「民主主義」なのは、国民全員がバカなので、なにも暴力を使う必要がないだけである。

 あるいは、わざわざ政府が弾圧しなくても、「愛国的」な一般市民が銃で撃ち殺してくれるからOK!なのである。


No.39 「今年もっとも流行らなかった流行語」大賞。(3/28)

変な言葉ですが、
「今年もっとも流行らなかった流行語大賞」
というのを、まだ3月にもかかわらず僕が勝手に決定しましたので、ここに発表いたします。
 それは、イラク戦争開戦直後に、アメリカのラムズフェルト国防長官がしきりに言っていた、
"Shock and Awe"(衝撃と畏怖)
 です。

 衝撃と畏怖。
 そういえばそんな言葉があったなあ。あのころはよかったなあ。まだ一週間前のことだけど、すっかり忘れてた。
 あのころは、なぜか、
「戦争はわずか一週間で終る。イラク軍はガタガタだし、イラク国民は戦う気がないし、アメリカが緒戦で一気に近代兵器の『衝撃』を与えると、イラク人は茫然自失して、あっさりとフセインを見捨てて、アメリカは無血でバクダッドに入城できる」
なんて真剣に論じている人々がいたなあ。
 
 僕は今でも、最初の空爆直後の記者会見で、ラムズフェルトが得意げに人差し指を揺らしながら、
「いいですか?最初にハイテク兵器で一気に巨大な衝撃を与える。敵は抵抗不可能になる。
これが『ショーック・アンド・オー作戦』でっせ……」
と言っていたのを思い出す。
 
だが、今はそんな夢は終った。
 
イラク人は執念深く戦っているし、アメリカもイギリスも苦戦しているし、当のラムズフェルトさえ、
「え?わし、すぐに戦争が終るなんてゆうてへんで。誰やこの戦争が簡単に終るなんてゆうた奴は。長く続くに決まってるやないか!」
と主張しはじめる始末である。

 結局、このかっこいいスローガン"Shock and Awe"は、たった二日間流行っただけで、その短い歴史を閉じたのであった。
 これほど流行らなかった「流行語」もめずらしく、それ自体「衝撃と畏怖」であり、僕はいま茫然自失としている。

 「流行らなさ度」では、小林亜世氏が作ったという「E電」と優に肩を並べ、センスの面ではそれをはるかに凌ぐステータスを誇っている。 

No.38 ストーカー国家 (3/27)

 アメリカという国は、どうやらストーカー国家らしい。
 何しろ、「自分はアラブ人に本当に嫌われている」ということに全然気付いてないのだから。

 信じがたいことにアメリカは、戦争を始める前に、
「我々が侵攻すると、イラク人は歓呼して、随喜の涙を流して迎えてくれる」
と本気で考えていたらしい。

 ところが、どうやらそうじゃない。
 イラク人はしつこく抵抗しているし、なんと「国を守るため」に、外国に出稼ぎに行っていたイラク人が、いま次々とイラクに帰国しているのだ。
 テレビカメラを向けても、アメリカ兵の前で、
「俺はアメリカが嫌いだ。ファック!」
と親指を突き出してみせる若者が大勢いる。

 しかし、アメリカはあきらめない。
「ほんとうはイラク人はアメリカが好きなのだ。
しかしフセインの恐怖体制のために、本音が言えないだけだ。
フセインが去り、『自由』なイラクが成立すると、
『ほんとはあなたが好きだったの。今までフセインが怖くて言えなかったの。ごめんね、ウフ!』
と腰をくねらせながら擦り寄ってくるにちがいない。
ほんとに素直じゃない女だなあ、しかしそこが魅力的なんだがなあ……」

 これ、完璧にストーカーの心理じゃないだろうか。
 何度相手にはねつけられても、
「こいつは本当は私のことが好きなんだ」
となんの根拠もなく思い続けるストーカーに。

 アメリカに、ストーカー禁止法でも適用できないだろうか。


No.37 アメリカの滅亡を予測する (3/22)


少し気が早いが、アメリカがいかにして滅亡するかを今から推測しておきたい。

アメリカは、よく古代のローマ帝国にたとえられる。
ローマ帝国は、彼らが「蛮族」といって嘲っていたゲルマン民族によって滅ぼされたのだ。
ゲルマンは野蛮人と蔑まれながら、せっせとローマの国境を脅かし、侵入を図り、移住し、ついには帝国を内部から崩壊させた。

そして、現在ではあのイスラムのテロリストこそが、このゲルマン民族の役割を担っている気がしてならない。
彼らはアメリカ白人から「異教徒」「有色人種」と蔑まれながらも帝国に挑戦し、最後にはこの老いたる王国を瓦解させるかもしれない。

誰かが言ったように、「自爆テロを防ぐ手立てはない」からだ。
いくらハイテクが発達し、武器の性能が向上しようと、それを乗り越えるのはいつも人間の情熱であり、怒りなのだ。
本気で死ぬ覚悟を決めた者を、誰も止めることはできはしない。
たとえアメリカ人であっても。

アメリカは、それを知るべきだ。
未来はおそらく、一部のアメリカ人が勝手に推測するような、美しくて極楽トンボなものじゃない。


No.36 アメリカは「どんな戦争でもOK!」と言う国 (3/22)

アメリカという国は、どんな戦争でもOK!で、イエスと言う国であることが分かった。そのメカニズムを、ここに公表します。

まず、大統領が戦争を決断する。それは、どんなむちゃくちゃな戦争であっても、ヤクザがつけるようなインネンであってもよい。今回のイラク攻撃のようなものだ。
議会はそれに反対する。
しかし、大統領には「拒否権」があるので、議会の決議を簡単に無視できるのである。

で、開戦する。
すると、愚かなアメリカ国民と議会は、どんなめちゃくちゃな戦争でも始まりさえすれば支持するので(今回の動きがまさにそうだ)、けっきょく
アメリカ人はどんな戦争でも賛成する

という恐るべきメカニズムが働いているのだ。

で、こんな「どんな戦争でもイエス!と言う」国が、世界で最大の大量殺戮兵器を所有しているのである。

これでは、仮に民主主義であっても、何の意味もない。
フセインの独裁体制のほうがはるかにましじゃないか、と思うほどだ。


No.35 「やりきれない」思い……イラク開戦に想う (3/22)

中東でドンパチが始まった。この野蛮行為については追い追い書いていきたいが、このような戦争が報道されるとき、かならずメディアで使われる言葉がある。
「やりきれない思い」だ。

OLの25歳。銀座の街角で、新聞社のインタビューに足を止め、開戦を告げる電光掲示板を見上げながら、こう言う。
「戦争が始まる前に止められなかったんですかね……なんだか空しいですね。平和の声が届かなかったんですからね……」
と長い髪をかきあげ、「やりきれない思い」をぶつけるのだ。

しかし、奇妙な日本語だ。
「やりきれない思い」の人は、いったい何を「やって」いるんだろう。
実は、何もやっていないんじゃないか。

僕は、とりあえずアメリカ製品ボイコットで行く。
マクドナルドを拒否し(普段から食べていないが)、自分も健康になり、アメリカ資本にも打撃を与えられるという、一石二鳥である。


No.34 ある神社前のエロショップ (3/11)


 この前、愛知県の大縣神社に、姫宮大祭という奇祭を見に行ったのだが、この神社は安産祈願の神社なのだ。
 なぜか、と言うか当然のごとく、神社前のみやげ物屋には、バイブレーターやら媚薬、あやしいローション、男性器・女性器をかたどった飴、スケスケパンティーにエロ本、エロビデオなど、アダルトグッズしか置いていない。
 完全にポルノショップ状態なのだ。

 だが、奇妙なことに、ここには「コンドーム」まで置いてあった。
 「どこが奇妙なんや!」
 と抗議される方もいるかも知れないが、ここは「安産祈願」の神社なのだ。
 コンドームなどあって避妊されては困るのだ。

 店の人は、何を考えてこんなものを売っているんだろう。
 何も考えずに売っているのか、それともここにおいてあるコンドームは、実はぜんぜん避妊されないという、恐るべきコンドームなんじゃないか。
 先端が破れていたり、特殊な薬品が塗りつけてあって「妊娠確実!」という、CIA特製の特殊コンドームだとか。
 
 さすが神社前のみやげ物屋だけあって、「アフター・ケア」も忘れないのである。


No.33 僕が最近いちばん感動したニュース (2/8)

 この間僕が読んで、激しく感動してしまったニュースがあるので、ここに公表します。

  
3年前にオウム真理教から改称したばかりの宗教団体アレフは7日、団体名の表記を「アーレフ」に変更した、と発表した。(アサヒ・コム  2003年2月7日)

 
……いや、ただそれだけのことだが、ただ単に「アレフ」が「アーレフ」になったというだけで、わざわざ報道してしまう、ジャーナリストとしての精神がすばらしい。
 なんとなく、日本のジャーナリズムに明日を見た気分である。


No.32 僕のホームページの実力について (1/19)

この間、思うところがあって、グーグルで「笑い祭り」について検索してみた。
すると、驚くべきことに、僕のサイトのデータが一番初めに出てきたのだ。

で、面白くなったので、「化け物祭」「がま祭り」「くらやみ祭り」「面掛行列」……と立て続けに検索してみた。
すると、ほとんどの項目で、真っ先に出てくるデータが、僕の「日本ふしぎ祭り」内の記述なのだ。

いったい、グーグルは、どういう基準で検索順位を決めているのだろう。
嬉しいと同時に、なんとなく不安になってくる。
言うまでもなく、僕の「日本ふしぎ祭り」は客観的な記述ではなく、あくまで僕個人のフィルターを通した、超主観的な感想なのだ。
その主観的な感想が、いつのまにか日本の奇祭界の「グローバル・スタンダード」になってしまったら、どうするんだ。


No.31 哲学者はいかにしてスキヤキを食うか(1/10)


最近読んで、大笑いしてしまった文章をひとつ。
哲学者ロラン・バルトが、なぜかスキヤキを食った時の感想である。重厚なる『表象の帝国』(ちくま学芸文庫)より……

これによると、スキヤキは、
「人が煮るにつれて費消されることを本質とし、したがって《繰りかえされる》ことを本質とするこの料理」
であり、一度食べ始めると、
「これという明確な瞬間も場所も、もはや存在しない。《すき焼き》はとだえることのないテキストのように、中心をもたないものとなる」
らしい。

うむ、さすがは哲学者である。
スキヤキひとつを食うにしても、これほど真剣な考察をしながら、箸を進めているのである。
市井の人間とはちがう。
よっぽど、まずいスキヤキだったにちがいない。